秩父出張から帰ってきた七海と凛太郎は、いつもの業務に戻っていた。
ある日の終業後、七海の部屋。ギャラクティカでの業務が終わっても、七海は自分の部屋で副業のwebデザイン業務。退勤と同時に九頭龍に戻った凛太郎も、りゅーペイ事業の仕事がある。それぞれ、七海は自室のデスク、九頭龍凛太郎はリビングのテーブルでPCを広げて真面目に仕事に打ち込んでいるのだが。
「カタカタカタ…」
「カチ…カチ…」
ひたすら、キーボードとマウスを操作する音が、無音の部屋に響いている。
…と。
突然、テーブルを両手で「バン!」と叩いたかと思うと、九頭龍凛太郎はやおら立ち上がって絶叫した。「ンガー!!!つまらん!どうして偉大なるこの儂が人間風情の仕事などせねばならんのだ…
そうじゃ、女子《おなご》じゃオナゴ!美しい女子を抱かせろ!!」「うっるさいわね、もー!!」
七海は自室から顔を赤らめて叫び返す。「龍神といえば色欲、これ常識。目覚めてから、何かを忘れておると思っとったわい…!
女子《おなご》を忘れておったのじゃ。これほどイケメン龍である儂が、女子を何か月も抱いておらんとかあり得んぞ!」「知りませんッ!!!」
七海は大事な商売道具であるはずの高価なPCを、九頭龍凛太郎の顔面に向かってぶん投げた。
♦
10年前―。
勇 千沙都《いさむ ちさと》は、13歳で父親の幸次郎を事故で亡くした。母親の京佳《きょうか》と千沙都は、近所でも評判の美人|母娘《ははこ》だった。シングルマザーとしての生活の厳しさは、予想した程ではなかった。家賃は公営住宅に引っ越したおかげで月2万円以下に押さえられた。自治体からの補助金は全ての母子家庭がもらえるわけではないし、全額ではなく一部支給となる場合もあるらしいのだが、京佳は運よく全額給付の対象となった。また、児童育成手当も月1万5千円。自治体からは月6万円程度もらえていた計算になる。それに父親・幸次郎の死亡保険金が入ってきた。
しかし… 小さな会社を経営していた幸次郎には、かなりの額の借金があった。それまでは主婦だった京佳は、ファストフード店のパートの仕事に就いた。借金を返しながら、このまま慎ましく幸せな生活を送っていくつもりだった。京佳は美人だった。結婚した年齢も若かったので、娘の千沙都が中学3年の15歳になった年でも36歳、まだまだ女ざかりはこれからという歳だった。自然、新しい男ができた。水口祐己《みずぐち ゆうき》という京佳の新しい恋人は、当時32歳とのことだった。京香のパート先のファストフード店の客だったらしい。人材派遣の会社で、役職のある地位にいるらしく、羽振りはよかった。千沙都と京佳は公営住宅から、家賃の高そうな水口のマンションに引っ越した。どこか妖しげな魅力があったが、優しい人みたいだ― 少なくとも、京香が水内と再婚するまでと、そして再婚してしばらくは、千沙都には水口のことがそう見えていた。しかし、化けの皮はすぐに剥がれた。
水口の目当ては京香ではなく、娘の千沙都だった(両方だったのかも知れない)。最初は、毎晩学校の勉強のことや将来のことで、親身に相談に乗ってくれているのだと思っていた。そのうちに、「娘としてではなく、女として君を愛している」ということが言われるようになった。初めて千沙都の体に牙が剥《む》かれたのは、たまたま京佳が家におらず、千里と水内が2人だけのときだった。もちろん、《《初めて》》だった。「お母さんに心配をかけないように、内緒にしようね」と念を押された。しかし後から考えると、この時にスパッと京佳に気づかれれば、まだ後腐れもなかったのかも知れない。
水口はそれからもしばらくは、京香が家にいない時間を狙って千沙都に襲いかかった。しかし、そんな機会は限られている。夜に水内が千沙都の部屋に通うようになるまで、そう長くはかからなかった。行為中、万が一にも母を起こしてはならないと、千沙都は必死に声を殺した。だが、そんなことを毎晩のように続けていて、母親が気づかない方がおかしいのである。
ある日―― 千沙都と水口が帰宅すると、京佳は自室で首を吊っていた。千沙都は腰を抜かして泣き叫んだが、水口はパニックを起こしている千沙都に、「見ちゃだめだ。お母さんを下ろして警察に連絡するから。それまで自分の部屋から出るんじゃないよ。いいね」と言って聞かせた。遺書などはなかったが、今考えると、この時に水口が遺書を処分していたのだろう。
そのうち、水口から千沙都に「お父さんの人材派遣の仕事を手伝ってほしい」ということが言われ始めた。
「派遣予定の従業員が当日になって急病になってしまってね。僕のお客さんは、偉い人ばかりだから本当に困ってるんだ。どうか頼むよ」
こう言われて渋々と引き受けると、場所と時間を教えられて向かった先のホテルの一室で待ち構えていた、上流階級らしき男たちに凌辱された。そこからの生活はひどいものだった。夜な夜な高級ホテルに呼び出されて男たちの相手をしたあと、帰宅しても水口に体を嬲《なぶ》られた。中には絶対に当然不登校になり、水口が「母親が亡くなったことで心身に不調をきたしてしまって…」という連絡をいれた。義務教育という制度のおかげで、水口の連絡を信じた学校が中学校の卒業証書だけは郵送してくれた。
ある日、いつものように気のすむまで千沙都の体を味わった後で、水口はこう告げた。
「実はね。前のお父さんの借金が、まだ2000万くらい残ってるんだ。僕が会社の売り上げから全部払ってあげる。千沙都もこの調子で手伝ってくれるよね」
「…」
千沙都は、京佳にあまり込み入ったことを尋ねるのを憚《はばか》って実父・幸次郎の借金額を確認しておかなかったことを後悔した。
その日から、千沙都はこっそりと、『副業』を始めるようになった。ある日も財界の大物が客だったが、伽の時間のあとでその客が千沙都に相談していた。「…っていうので迷ってるんだけど。チサちゃん、今回はどう思うかい?」
「うーん… よくわからないけど、お客さんに喜んでもらえる方にしたらいいんじゃないですか?」
「そうか。そうだよなぁ。よし決まった。一時的に収益が減るかもしれないけど、この話に乗ってみよう。ありがとう、チサちゃん。また相談するよ。
…これ、少ないけどコンサル料ね」千沙都はいつの間にか、客としてやってくる政財界の大物から経営や戦略の相談を受けるようになっていた。もちろん本格的な知識はないから、「なんとなく、コッチにした方がいいと思う」などのごくカンタンな意見を言うだけである。だが千沙都のカンはなぜか100%当たった。気が付けば『コンサル料』という名のチップが相当貯まってきた。
3年後。18歳になった千沙都は、「お世話になりました。探さないでください。連絡してきたら警察に通報します」というメモと一緒に、輪ゴムでとめた厚さ25センチほどの2000万円の札束を、封筒にも入れずに置いて家を出た。♦
すぐに千沙都はマッチングアプリで体を売り始めた。客の一人に、漆島《うるしま》と名乗るスカウトマンがいた。「君なら最上級の待遇で働けるから」と熱心に説得され、紹介されるがまま、「PEARL(パール)」という高級風俗店で働きはじめた。源氏名は「きらら」にした。入店してすぐに人気が爆発し、No.1キャストとなった。気が付けば、23歳。父親の幸次郎が死んでから10年が経っていた。
ある日。「きらら」こと千沙都は今日も4枠完売だ。今日はスタートから3人つづけて馴染みの客。最後の4人目は、新規の客らしい。
(よしラスト一人、頑張ろう!)
いつになっても新規客との初対面は緊張するものだ。PEARLにはエレベーターがない。嬢が待機している部屋から受付と客の待合室のある1階まで、階段を降りて迎えに行くスタイルである。新規客の場合は、そこで嬢と初対面となる。
店員の梶谷が客を案内する。
「きららさんのご指名、ありがとうございます。お時間までごゆっくり、お楽しみくださいませ」「…!!」
千沙都は絶句した。
そこに立っていたのは、水口祐己。自分の体を汚し、母親を自殺に追いやった張本人であった。(つづく)
「いや… この人、ダメです… いや!!」 全く予想もしない形で水口と再会した千沙都は、パニックを起こしてしまっている。「えっと…!?」店員の梶谷は、どう対応していいか分からない。「待ってくれ、話がしたいんだ」 水口は食い下がる。「帰って!帰ってください!」 千沙都は階段を駆け上がって自室に逃げた。水口は流石に、追ってくることはしなかった。 梶谷はようやく、冷静さを取り戻した。 「お客様、申し訳ありません。事情は分かりませんが、今日のところはお引き取り願えますか」「私はあの子の家族です。話し合いに来たんです」「そう言われましても…」騒ぎを聞きつけて、店長の槌田が、奥の控室から出てきた。 「お客様。申し訳ございません。これ以上騒がれますと、こちらとしても警察に相談しなければならなくなります」「私は父親なんですよ?」「では、警察同伴の上でお話し願えますか」「…」「どうかご理解下さい。お願いします」「…分かりました。またご連絡します。今日は失礼します」 水口がしっかりと店を出て、ある程度遠くまで歩いて行ったの確認してから、槌田は千沙都の部屋を訪れた。案の定、泣いている。「うっ…う…」「…大丈夫か?」 千沙都はかぶりを振る。「あの人は、本当にお父さんなんか?」 千沙都は泣きながら、今までのいきさつを説明した。「…今まで連絡は取ってなかったんやろ?」 一通り千沙都が話し終わって初めて、槌田は口を開いた。「はい、一度も取ってません。携帯も変えて、連絡先も分からなくしたはずなのに…」「どうにかして調べてきたのか、たまたま見つけたのか… パネル写真、口元を隠してても意外に分かるもんやからな…」「…」「…今日はもう早めに上がれ。これからどうするか、明日以降ゆっくり相談しようや」 千沙都は、かろうじて頷いた。「お前、朋美と仲良かったよな。 …おーい、朋美」 槌田店長はキャストの待機場所をのぞき込むと、朋美という名の源氏名のキャストを呼びつけた。「朋美、今日はもう上がっていいぞ。悪いが、きららを家まで連れて帰ってくれないか。時給はつけとくから」 (※風俗店のキャストは基本的に時給ではなく、客が入るとはじめてペイが発生する。しかし一部の店はキャストに対し、客がつかなくても待機している間の時給を出す、いわゆる『時給保証
秩父出張から帰ってきた七海と凛太郎は、いつもの業務に戻っていた。 ある日の終業後、七海の部屋。ギャラクティカでの業務が終わっても、七海は自分の部屋で副業のwebデザイン業務。退勤と同時に九頭龍に戻った凛太郎も、りゅーペイ事業の仕事がある。それぞれ、七海は自室のデスク、九頭龍凛太郎はリビングのテーブルでPCを広げて真面目に仕事に打ち込んでいるのだが。「カタカタカタ…」「カチ…カチ…」ひたすら、キーボードとマウスを操作する音が、無音の部屋に響いている。…と。 突然、テーブルを両手で「バン!」と叩いたかと思うと、九頭龍凛太郎はやおら立ち上がって絶叫した。「ンガー!!!つまらん!どうして偉大なるこの儂が人間風情の仕事などせねばならんのだ… そうじゃ、女子《おなご》じゃオナゴ!美しい女子を抱かせろ!!」「うっるさいわね、もー!!」 七海は自室から顔を赤らめて叫び返す。「龍神といえば色欲、これ常識。目覚めてから、何かを忘れておると思っとったわい…! 女子《おなご》を忘れておったのじゃ。これほどイケメン龍である儂が、女子を何か月も抱いておらんとかあり得んぞ!」「知りませんッ!!!」七海は大事な商売道具であるはずの高価なPCを、九頭龍凛太郎の顔面に向かってぶん投げた。♦ 10年前―。 勇 千沙都《いさむ ちさと》は、13歳で父親の幸次郎を事故で亡くした。母親の京佳《きょうか》と千沙都は、近所でも評判の美人|母娘《ははこ》だった。シングルマザーとしての生活の厳しさは、予想した程ではなかった。家賃は公営住宅に引っ越したおかげで月2万円以下に押さえられた。自治体からの補助金は全ての母子家庭がもらえるわけではないし、全額ではなく一部支給となる場合もあるらしいのだが、京佳は運よく全額給付の対象となった。また、児童育成手当も月1万5千円。自治体からは月6万円程度もらえていた計算になる。それに父親・幸次郎の死亡保険金が入ってきた。 しかし… 小さな会社を経営していた幸次郎には、かなりの額の借金があった。それまでは主婦だった京佳は、ファストフード店のパートの仕事に就いた。借金を返しながら、このまま慎ましく幸せな生活を送っていくつもりだった。 京佳は美人だった。結婚した年齢も若かったので、娘の千沙都が中学3年の15歳になった年でも36歳、まだま